呼子の朝市を後に、ドライブをしているとー

「
桃山天下市」という看板、そこは
道の駅でした。

ここに、なぜ桃山天下? この疑問は次に訪れたところで解明するのです。
また少し車を走らせると、古めかしい堂々たる石垣が続いていました。
この上には何があるのでしょう? ぐるり回りながら、入り口を探しました。

ここは、
桃山 時代に
天下を取った
秀吉が、
朝鮮出兵の足掛かりとした
名護屋城があった所だったのです。
大手口から登っていきました。

広い敷地に大規模な石垣、建物は残っていませんが、往時の壮大さが伺えます。

丘の上に着くと、視界が開けてきました。

大陸へと続く海が見渡せます。

「太閤が 睨みし海の 霞かな」 眼下には “
呼子大橋”

城からは放射状に、家康や利家らそうそうたる諸国の大名たちが陣を張っていたようです。
伊達政宗 の陣跡もありました。

政宗は家臣の
片倉小十郎や
支倉常長らを伴い、6ヶ月間秀吉の朝鮮出兵に従軍しています。
秀吉の権力と野望は、凄いものがありましたね。
んでも、おらほの殿様政宗公も負げでいねがったどー (急に東北弁)負げでいねがった話を二題。
一つ目・・・
「
伊達な着こなし」「
伊達めがね」など、粋、お洒落の意味で使われている“
伊達”という言葉の語源。
仙台から朝鮮に出陣する伊達家軍団の衣装が、派手で人目を引いたところからきているそうですよ。
二つ目・・・
あの時代に政宗公は、家臣の支倉常長をヨーロッパへ遣わしていたのです。(慶長遣欧使節)表向きの目的は交易ですが、無敵艦隊を誇る
スペイン、世界布教を進める
ローマと手を組み、いずれは天下を取るという野望があったのではと推測されています。
慶長18年(1613)宣教師を伴った常長の使節団は、木造船“
サン・ファン・バウテスタ号”で石巻の月の浦から出航、太平洋を航海し、メキシコに到着。
(現在“サン・ファン・バウテスタ号”は復元されて石巻の渡波港に浮かび、その周囲は公園になっています)政宗の親書をメキシコ総督に渡した後、大陸を横断、別の船で大西洋を越えヨーロッパに上陸しました。
途中、常長は洗礼を受け、苦労を重ねて、
スペイン国王に謁見を果たしました。
その後フランスを経てイタリアへ行き、
ローマ教皇とも謁見しました。
7年という歳月を費やし、命を懸けて偉業を成し遂げて帰国した常長でしたが、祖国は禁教令が布かれ、鎖国へと向かう時世。
失意のまま、2年後他界し、歴史から消え去るのです。
政宗も常長も、沈黙を通しました。
支倉家の後を継いだ長男は、政宗亡き後、キリシタンの咎で使用人たちと処刑されています。
(常長がヨーロッパから持ち帰った貴重な品々は、仙台市博物館で常設展示されています)
明治になって、岩倉具視の欧州使節団がベネチアに赴いた時、「あなた方は日本からの2回目の大使です」と言われました。
常長の使節団の記録が残されていたのです。
ヨーロッパでは政宗が献上した品々も残っていて、断片的に常長の足跡を知ることができます。
後日談をもう一つ。
スペインでは、日本という意味の
ハポン姓を名乗る人たちが600名ほどいるそうです。
常長一行のうち、何名か残った人たちがいて、その子孫だと伝えられています。
今でも生まれてくる赤ん坊には蒙古斑があるとか。
仙台市では、ハポンさんたちを招待したりして、親善を深めています。
おらほの殿様の度量と夢は、でっけがったなあー
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